木下 富美子

ロチェスター留学記

Rochester留学記

日本の生きる道 —アメリカ留学を終えて−

アメリカと日本

アメリカ人はどうしてかくも肥満が多いのか?
それは実際に住んでみるまでは気づかなかったのだが、CTのガントリーから溢れそうな人たちが山といる。そしてCTを見ればあまりにも厚い腹壁脂肪に驚くのである。食生活の影響であろうか。今でこそ「good looking を維持したい」という若い世代の出現により菜食主義や low cholesterolの和食がブームになっているものの、アメリカの定番 hamburgerにfrench fry(フライドポテト)、Cokeというmenuを好む人々は決して少数派ではない。そして彼らは兎に角よく食べる。量こそこの国に必要なものなのかと思われるくらいに食べる。具体的にはアメリカでフルコースを完食することは通常の日本人にはなかなか難しい。さすがに予算一人 $100 以上の要予約・dress codeがある最高級レストランでは正当派フランス料理のお上品な盛り付けとなるが、庶民派レストランは勿論、 1人$50 程度の雰囲気の良いお店に行ってもmain dishとsalad以上のものを注文すると大抵後で後悔する羽目になった。私のいつもの目標は「今日は何とかdesertまで辿り着きたい」なのだった。同様の現象はそこかしこで目にすることができた。日本でも人気が出てあちこちに出店し始めた Starbacks coffee の一番小さい cup(tall size)は日本ならlargeだろうし、marketで売っている牛乳はgallon売り(1 gallon = 3.78 l)、鶏もも肉の1枚売りなんて何処をどう探しても見つからないのである。何でもかんでも大きいのである。まるで、大きくなければ悪とでも言わんばかりに。

逆にアメリカから見た日本は何でもかんでも小さいのだろう。
体も小さければ国も小さい。服も食べ物も家も車も携帯電話もケチケチ・チマチマとちっちゃいのである。ちなみにアメリカに軽自動車はない。トイレの便器は・・ご想像にお任せしよう。アメリカ人が日本で食事をしたら(オヤマァ、コンナニスコシシカナイノカシラ)と思うに違いない。病院でpager(ポケベノレ)を持たされたが、10年以上昔の骨董品ではないかと思うくらい黒くて大きくて無骨であった。そして電池を非常に食う。豊富な資源と広大な国土を基盤にenergyをどんどん消費する頑丈でごっついものを作り出している。ああ、これがアメリカ文明かあ・・と実感することしかりである。それに引き換え卑小な国土とわずかなenergyしか持たず、故に、省エネ・軽くて小さくて・繊細、いっぱい option を付けた付加価値と利便性で売り込んでいたのが日本だったのだ。つまり茶髪の高校生が喜びそうな「カワイィ~」製品が生産されていく。そしてCTを読影していても思うのである。TOSHIBAの読影端末に表示される理解をはるかに超える数の様々な short cut keyである。これが日本の用意した利便性である。そして愛用の Macintosh の重量は(君たち日本人にはこれが重いのか?)と言わんばかりに軽くならず、一方日本のノートパソコンはますます軽量化と持ち運びの良さを競っている。


日本の悪口みたいになってしまった。
もう少し我慢してお読み頂きたい。帰国して日本の道路が異常に美しいことに気づいた。アメリカの高速道路は決して美しくない。日本の方が素晴らしいことだってあるじゃないか、と思った方々へ。私が思うに、トンネルの入口にタイル張りの絵を飾り付ける金があるのなら、もっと他のことに使って欲しい。アメリカはあんな広い国土に道路を張り巡らさなくてはならないのだから金をかけてはいられないのだ。アメリカの道のひどさを表す表現に“pithall”いう言葉がある。つまり“穴ぼこ”のことである。整備に金をかけないためにアメリカの道はひび割れ穴があいているというのである。こういった質の悪さは真似して欲しくはない。しかし、出張で倉吉まで行く間に道路工事の現場を3箇所も目撃するのは、ちと多すぎはしないだろうか?本当に直す必要があって工事をしているかどうか不思議に思う。


日本人のマナーの悪さにも気づいた。
帰国後、妊娠をしていた私は、病院の支払いを待っていた。アメリカ式に慣れてしまった私は窓口からは少し離れて待っていた。Privacy の国アメリカでは窓口の前にずらっと行列して待つ光景はあまり見受けられない。後ろからのぞき込んだら前の人の伝票に書き込まれた AIDSの文字が見えてしまうかもしれないからだ。窓口では順番が来た人と職員とが1対1で話をして、順番待ちの人は少し離れて1列に並んでいる。そして、私は見事に裏切られたのだった。後ろから来たおばあちゃん・おじいちゃん達が待っている私の前にどんどん割り込んできて空いている窓口をねらってサッと前に出てくる。窓口で計算をしている人の真横にピタッと張り付いて「次は私の番だからね」を思いっきり体で主張している。“中国人は平気で割り込んでくる” と聞いたことがあるが、なあに、日本人だってやっているじゃないか、と思った。


あと、日本の“融通きかない”も直した方がいい。
あるアメリカ人が某 Mパーガーでハンバーガーを注文した。彼は玉葱のスライスをトッピングしたかった。店のバイトが言った。「照り焼きパーガーには玉葱はのせられません。玉葱がのっているのはフイツシュバーガーです」アメリカ人は言った。「いや、わたしは照り焼きパーガーに玉葱をのせて欲しい」「それは、できません」「そこにスライスした玉葱があるじゃないか?¥50払おう」「店の規則です」怒ったアメリカ人は隣のスーパーに行き玉葱を買ってハンバーガー屋に戻った。「これをスライスして入れてくれ!」実話である。この話を聞いたときは渡米前で(どうしてそんなことに拘るのか?)と不思議に思った。しかし、住んでみてわかった。BostonのBagle屋に入ったときのことである。 (私) “Samlon & cheese, please”(店員)“Tomato?” “No” “Lettuce?” “No” “Pickles?” “No” “Mustard?” “No”日本式に慣れていた私はトッピングの全ては別料金を取られると思っていたので全てNoと答えたのだ。実際は、同じ料金でその人の好みのトッピングを選ぶことができる。「ツナのベーグルサンドお願い。えーと、レタスはいるけどトマトは入れない。それからダイエット中だからチーズはカッテージチーズにしてね。マヨネーズは抜いて代わりにケチャップとマスタードはたっぷりね」、というのがアメリカ式の注文方法だ。米子のアメリカ人にとっては当然自由に選べるはずのトッピングがMバーガーでは見事に否定されたのである。日本には型にはまってしまうとそこからでられない融通の利かなさと型苦しさがある。

日本のスーパーで生椎茸を1個だけ買いたかったら、皆さんどうするだろう?
アメリカの marketで嬉しかったのは、必要な個数だけ自由に量り売りしてくれることである。そして可笑しいくらいおおらかだった。6月に入り日本でもアメリカンチェリーの輸入が本格的になった時、アメリカ人は商品を味見してから買っていた。決して試食用が分けて置いてあるわけではない。山積みしてあるcherryを勝手に食べてと“Good!”確認して買っていくので ある。先日 Jusco で山積みされた売り物のチェリーに「試食用ではありません」と大きくと張り紙がしてあったのには苦笑した。そして、アメリカではlダース売りの卵は多すぎて食べられないと思うお年寄りはなんと卵のパックをハサミで半分に cutして買っていったのだった。日本には決められたマニュアルからはみ出ることが許されない息苦しさがある。

日系航空会社のスチュワーデス達は皆社則で決められた通りの美しい笑顔を振る舞い化粧の仕方も指導されて髪型も話し方も統一されている。規則に縛られないアメリカの cabin attendant のアナウンスに“Today is Martha’s 36th birth day. Thank you!”というのがあって乗客は拍手をしてあげていた。(ただし、個人的にJAL や ANAの整えられたスチュワーデスさんが大好きなことも付け加えておく。)

ごまかしの効かない本物を提供できるかどうか

さて、ここまで批判めいたことばかり書いてきたが、日本に帰ってきて本当に良かったと思った瞬間があった。それは美しい桜が咲き乱れていたことと、美味しい食事に出会えたことだ。桜はアメリカの空には似合わない。アメリカの空は「はんなり」とか「春霞」といった風情とは程遠い所にある。春でも日差しは射抜くように強く真っ青に力強い色合いなのだ。それこそくっきりカラーのアメリカ国旗をはためかせ自由の女神を立たせるととてもよく似合うのだが、桜には少しきつすぎる。あの淡い桜色にはやはり日本が似合うとつくづく感じ、アメリカ文化にはないきめ細やかさを実感した瞬間であった。

そして日本料理は美味しい。いや日本のフランス料理も中華料理も、アメリカに比べたら美味しい。実際に、あるイタリア人が日本のイタリア料理は本場のより美味しいと言っていた。それはきっと料理の隅々まで行き渡る料理人の心を感じるからだ。Rochester で食べる日本料理は所詮似せてみせた違う何かだった。

表面的に真似をしただけでは作り物に過ぎない。勿論、東洋の心を理解しようとするアメリカ人もいる。夫が所属していたdepartmentのchiefのお宅にChristmas partyで招かれたとき、日本好きの彼の家には硯と筆があった。そして寿司でもてなしてくれた。

弱小国日本が生き残る道は一体何だろう?
私が思うに、ごまかしの効かない本物を提供できるかどうか、だ。 量より質である。いや、言い直そう。量は勿論、質はもっと大切。形を真似ただけや飾り立てた見栄えの良さではない。ちまちまちっちゃくてケチくさいではなく、小さいからこそ本物という面があるのも確かだ。京都の裏路地が広々とした道路なら、それはもう京都ではなくなってしまう。茶室は小さいからこそ意味深い。そういう良いものに出会ったとき、アメリカ人は“ウサギ小屋ねえ~”なんて決して言わない。“beattiful!”と息を呑むのである。アメリカには日本文化と称するエセ文化が見受けられるが、うわべを真似ただけの薄っぺらなニセモノで我々から見ると浅い底が見えてしまう。

そしてこのことは今の日本社会のどの分野にも言えるのではないか?
銀行が沢山できて支店もあちこちに建ってATM もそこかしこにある便利な世の中になった。量は満たされた。しかし、この不良債権問題である。質の悪いものは淘汰される時代になった。私たちの生きる医療分野もそうではないか?CTはmultidetectorの時代を迎え量はこなせるようになった。次は読影する我々が質を向上させていく番である。