医学部の歴史

鳥取大学医学部の歴史をご紹介します。

昭和20年3月27日、文部省直轄諸学校官制が改正され、米子医学専門学校の設立が本決まりとなった。当時、軍医養成のための医専増設を急いでいた文部省は、300床規模の病院と公社、土地8000坪を地元が提供することを条件に、山陰での候補地を探していた。鳥取県で最初に文部省の照会に接した教学課長鶴田憲次氏の述懐によると、昭和18年の大地震で壊滅的被害を受けた鳥取市にその余裕はなく、県内で最も条件を満たす適地として財団法人米子病院に一本化の上、鳥取県議会も満場一致、米子市誘致を推進したという。

米子医専創立

昭和20年7月1日、初代校長を下田光造氏として、米子医専1期生の入学式を挙行し、鳥取大学医学部の母体がスタートした。
米子医専は当初、米子市立義方小学校、私立精華女学校を校舎として使用した。

米子医専から米子医大へ

明治以来の古い歴史を持つ財団法人米子病院は、昭和21年6月、米子医専に移管されて附属医院となった。しかし、軍医養成という目的を失った設備の貧弱な医専に対し全国的に廃止を求める動きが起こり、文部省は医師の資質向上の見地から条件を満たすものを医科大学へ昇格させ、著しく条件の劣る医専は廃校の方針を決定した。鳥取県は、昇格実現のための猛運動を展開した。下田校長をはじめ、関係者らは片道20時間の夜汽車で上京、文部省へ陳情を繰り返した。こうした関係者の涙ぐましい努力の結果、政治的解決を委ねられた政府は、米子医専の医科大学昇格の方針を決め、昭和23年2月米子医科大学の設置を正式に認可した。米子医専は、昭和26年3月をもって、自然廃校となった。
米子医大は、昭和23年5月4日、第1回の入学式を行い、23名が地元の大学生として米子の街に登場した。

米子医大から鳥取大学医学部へ

昭和24年5月、一府県一大学を原則とする国立学校設置法が公布され、鳥取県も鳥取農専、鳥取師範、青年師範に米子医大を加えて統合し、国立鳥取大学が設立されることになった。当初、新学制に切り替わる昭和29年度から鳥取大学医学部として統合することにしていたが、文部省の強い意向で発足時からこれに加わることになり、この時代の本学は鳥取大学米子医科大学という公式名称が与えられた。昭和26年から新制鳥取大学医学部として発足、新入生を迎え、当該年度に掲げる看板は、米子医学専門学校、米子医科大学、鳥取大学医学部の3枚が掲げられることになった。

創立10周年

昭和30年、第2臨床講堂で記念式典を挙行、記念行事として、学術講演会や学内会報展示会、医学部揺籃、各教室業績集を発行して内外に発展ぶりを披露した。
また、同じ年、鳥取大学医学部として初めての卒業生を送り出した。

学内開放

昭和32年頃から、大学と学生会による学内開放(後の医学展さらにその後の錦祭に続く)が原則として隔年ごとに行われていた。当時はマスコミ等による医学情報が少なかったせいもあり、癌、糖尿病等の諸疾患について教官の指導の下、学生が参観者に対し分かりやすく説明し、大変好評であった。昭和37年の学内開放では、3,000人を越す市民が大学を訪れた。

基礎研究棟及び講義棟の整備拡充

昭和40年代は木造モルタルの基礎医学等が次々と解体され、医学部側建物群の様相は一新した。

学園紛争

昭和41年ごろから授業ボイコットが始まり、この動きに大学側は学生に対し、懲戒と訓告の処分を行った。昭和41年、新しい学生寮が竣工したが、その入寮者の選考と管理規則をめぐって学生会と大学側は真っ向から激しく対立。こうした紛争多発に学生と教授会との意思疎通を図る方策が種々検討され、「鳥取大学医学部時報」の発行が始まった。

鳥取大学医療技術短期大学部 設立

昭和50年、医療の高度化、細分化に伴って要求される、看護・臨床検査の専門知識や進歩した技術の職能を教授研究し、併せて豊かな人間性と幅広い教養を備えた広く国民の保健医療の向上に貢献できる専門職の育成を目的として鳥取大学医療技術短期大学部を設立した。

創立 30周年

同じく昭和50年、創立30周年の記念事業の一環として、本医学部に籍を置く若手研究者への賞として、「下田光造記念賞」を制定した。本学開設初期の校長、学長、医学部長として本学の発展に大きく貢献された下田光造先生の名前をご存命中であったご本人のご承諾をえていただき『下田賞』と名付けられた。基金は、同窓会、下田光造先生ご逝去の際、ご遺族から戴いた多額の寄付金で運営している。

下田光造先生逝く

昭和53年、鳥取大学医学部の生みの親とも言うべき下田光造先生が、93才にて永眠された。告別式は、医学部記念講堂にて、鳥取大学医学部および米子市の合同葬にてとりおこなわれ、全国各地の精神科医学者、米子市長をはじめ、多くの関係者が参列した。

創立40周年

昭和60年、開学以来の卒業生は2,600名を数え、施設面でも数多くの先端機器を備えた建物群は、鉄筋建築となった。
また、創立40周年の記念事業の一つとして「鳥取大学医学部の将来像」と題したパネルディスカッションを開催した。米子市長、商工会議所会頭、鳥取県医師会長、医学部長、病院長の各パネリストらが医学部の現状に対する所信を述べたあと、発展策についての意見交換を行った。さらに、記念事業の一環として新たなシンボルマークを制定した。

ステロイド医学研究施設から生命科学科へ

生物に存在していてステロイド化合物と総称される一群の物質は、有効的な治療薬として投与されてきた。わが国では古くから「熊胆」が用いられた。しかしながら、その医学的根拠は充分に解明されていなかった。昭和41年、「ステロイド医学研究施設」が設置され、ステロイドホルモンの生合成と代謝の研究が進められた。平成2年、ステロイド医学研究施設は、新たな可能性を秘めた生命科学科の各講座へ発展を遂げて27年間に及ぶ歴史に幕を閉じた。

創立50周年

平成7年、50周年記念式典を挙行した。50周年記念誌「鳥取大学医学部50年の歩み 飛鳥」を同窓会により発行。また、記念式典と併せて同じ日に新外来・中央診療棟開院記念式を挙行した。

鳥取大学医療技術短期大学部から保健学科へ

平成11年、将来の社会情勢および大学の将来像を検討し、鳥取大学医療技術短期大学部を改組し、医学部の中に「保健学科」を設置した。保健学科設置に至るまでに、文部省医学教育課との間で設置に関する折衝が行われ、高齢化や国際医療に対応するようなユニークな教育カリキュラムの編成が精力的になされた。

創立60周年

平成17年、創立60周年記念式典を挙行した。記念事業の一環として新たなシンボルマークを制定。

シンボルマークの推移_3【趣旨】
未来に羽ばたく鳥取大学のトリをモチーフにして、トリの色は鳥取県のイメージカラーである梨の色を、4枚の翼は教育、研究、診療、地域貢献をあらわしている。水色の玉は人間の命をあらわすとともに、医学部の3学科を示している。鳥取大学の翼に包まれながら、医学部と附属病院が発展していくとともに、生命を大切にする優しさを表現している。

創立70周年

平成27年、鳥取大学医学部は、創立70周年を迎えた。

とっとり創薬実証センター竣工

独自の染色体工学技術をもとに抗体医薬の開発を目指すため、平成30年3月9日、とっとり創薬実証センターが竣工した。染色体工学研究センターが約30年にわたる研究で独自開発した人工染色体ベクターを基盤に、完全ヒト抗体産生動物を用いた抗体医薬の開発や疾患モデル動物の作製による既存薬の再開発に繋がることが期待される。

鳥取県ドクターヘリ運航を開始

本院のヘリによる患者搬送は、1キロ離れた米子港を経由していたが、平成26年6月5日、本院敷地内にヘリポートが設置され、迅速な搬送が可能となった。その後、平成30年3月26日には、関西広域連合広域医療局及び鳥取県の支援を受け、鳥取県ドクターヘリ運航が開始され、医師と看護師がヘリで救急医療現場へ直接出向き、早期の医療介入を可能とすることで、死亡率減少及び後遺症軽減に繋がるとともにへき地救急医療体制の強化にも寄与している。

創立75周年

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令和2年、鳥取大学医学部は創立75周年を迎え、令和3年に75周年式典を挙行し、75周年記念誌を発行した。また、記念事業としてサークル棟の改修、記念植樹及び臨床講義棟講義室の整備を行った。