押村 光雄 (Mitsuo Oshimura) 鳥取大学 名誉教授
【略歴】
ロズウェルパーク癌研究所、東京医科歯科大学、米国NIH、神奈川県立がんセンターを経て、
平成2年~26年3月 鳥取大学医学部教授
平成15年4月~26年3月 医学系研究科教授
平成26年4月~現鳥取大学・染色体工学研究センター 特任教授
e-mail:oshimura@med.tottori-u.ac.jp
tel:+81-859-38-6211
【主な受賞歴】
平成5年 高松宮妃癌研究基金学術賞
平成14年 日本人類遺伝学会賞
【主な競争的資金獲得歴】
平成16年~21年 文科省 21世紀COEプログラム 「染色体工学技術開発拠点形成」プロジェクトリーダー
平成21年~25年 JST 「CREST」 研究代表
現 「地域イノベーションクラスタープログラム」 研究統括
「染色体医工学」という鳥取大学発・新領域が創生される過程は、私、押村光雄が歩んできた研究の軌跡を振り返ることによって概ね掴みとることができると思う。記憶を辿って書いているので年代は少々ずれがあるかもしれないが、大目に見ていただきたい。
黎明
私の「染色体」との出会いは、島根大学文理学部若浜健一先生と、大学2年生(1968年)の集中講義に来られた九州大学教授・芳賀忞(ツトム)先生との出 会いに始まる。芳賀先生の講義の中心はショウジョウバエやオオヤマエンレイソウの染色体の形態学的研究による核型進化であった。先生の御自身の研究成果を 交え、楽しそうにお話をされているお姿が43年も経過した今(2012年8月5日)でも脳裏に焼き付いている。染色体の形態の違いでもって、特定の生物種 や種間の進化のプロセスを推測することができるとは、大学2年生の学生にとっては衝撃的感動であった。因みに、その時はどうであったかわからないが、後に 聞いた話では、先生は酒を飲みながら講義をする先生であったらしい。今では考えられないことであるが。
私が大学3年生(1969年)になると、無給医問題を発端とした東大安田講堂の攻防から端を発し、全国に広がっていた大学紛争が、島根大学においても始 まった。大学内でのアジテーションや毎日のような市中での学生デモ、半年にわたる全共闘(セクトの1つ)の大学講義室占拠が続き、この間の講義は全く無 かった。大学によって紛争のきっかけは異なるも、その時の学生の主張は権力への抵抗であったように思う。今後の我が国の行く末はどうなるのだろうか、若者 はどのように行動すべきかを毎日のように語り合う学生がいるかと思えば、その間バイトに励むもの、麻雀ばかりしているもの、実家に帰ってしまったものな ど、その間の過ごし方は様々であった。私と言えば、ノンポリ(特にポリシーがない)であったため、前述の若浜健一先生にお願いし、講義がない間、先生の ショウジョウバエの染色体研究のお手伝いをさせて頂いた。手伝いと言っても、先生が顕微鏡写真を撮ったショウジョウバエの唾液染色体のフィルムを現像した り、それをプリントしたり、ショウジョウバエの餌つくりが主な仕事であった。「門前の小僧習わぬ経を読む」で、少しずつ先生が何をやっているのかがわかっ てきた。また教室の図書室に所蔵しておられた学会のジャーナル「日本遺伝学会誌」があり、それをパラパラと見ているうちに、北海道大学理学部附属染色体研 究室からヒトや様々な動物の染色体研究の報告がしばしば掲載されていることに気付いた。なんとなく、動物染色体研究に関する我が国の中心的研究室であるよ うな感じがした。
北海道大学にて
卒業後の進路と言えば、兄と姉が学校の教師であったためか、特にこれといった能力があるわけでなかったので、なんとなく中学か高校の理科の先生にでもなろ うと思い(俗にこれをデモシカ先生という)、中学及び高校理科の教員免許取得のカリキュラムを取っていた。しかし、鳥取県での採用がゼロであったし、採用 試験のための勉強もしていなかったので、しばらく北海道大学に行き動物染色体の研究に触れてみたいという衝動に駆られた。その後から学校の先生にでもなろ うかと思って、1971年4月北大理学部附属染色体研究施設(施設長、佐々木本道教授)の門をたたくことになった。
最初に私に与えられたテーマは、先輩に指導していただきながら、人工流産胎児の染色体を解析することであった。そして、ギムザ染色した染色体解析のため、顕微鏡を毎日毎日数時間のぞいた。このような研究成果はヒトの発生過程における染色体異常の頻度を知る 国際的データとなった。しかし、それは午後に行う仕事であって、午前中は先生や先輩が使った実験器具の洗浄であり、それが代々行われている一年兵の役割で あった。ヒト染色体の解析ができるようになると、犬の陰部腫瘍の研究をやるように佐々木教授から言われた。当時、野良犬はいたるところにおり、北海道大学 の構内にも結構いた。特に野良犬の陰部には春先や秋口に腫瘍ができることが知られており、この腫瘍発生の原因を先生が知りたかったことから始まる。染色体 研出身の先輩にお願いして長崎からも集めた。北大獣医学部との共同研究として染色体解析や移植実験などの研究により、この犬の腫瘍は交尾による細胞の移植 であることが分かった。それまでに発表されていた海外でのケースと比較することによって、結果、世界中の犬のこのタイプの腫瘍は、1匹の犬の腫瘍から交尾 による細胞移植が原因であることが分かった。この研究成果はJournal National Cancer Institute(JNCI)という米国立がん研究所が発行している国際誌に発表され、私の最初の国際誌発表となった。またその研究のため、正常な犬の 染色体バンディングパターンの解析が必要となり、野良犬の死体を札幌の保健所からもらってきて、骨髄の染色体を解析した。これが犬の染色体解析の世界初の 報告となった。骨髄は犬の足をノコギリで切って採取した。気分の良い仕事ではない。その後、エゾヤチネズミ、エゾシカ、タンチョウヅル、ゴリラ、オラン ウータン、レムール、インドホエジカ、ゴキブリ、カメムシ、バッタ、ウナギなど様々な染色体解析を行った。そのいくつかは論文になったものもあるが、多く は観察したということで終わった。研究に遊び心と余裕があった時代である。
そうこうしているうちに、海外からの留学から帰って来られていた高木信夫助手のもとで、X-染色体不活性化の研究や、染色体転座を持つマウスの減数分裂 について研究を行い、染色体異常を持つ精子や卵子の発生過程の研究を行った。染色体異常を持つ精子・卵子は、正常染色体をもつ精子と同程度の受精能を持 ち、発生過程で染色体異常を持つ個体は死んでいくことを見出した。この研究によって減数分裂と胎児発生過程の知識を得ることができた。これらの成果は当時 インパクトファクターの高い国際誌(Cytogenetics and Cell Genetics)に掲載された。私は今でも、この研究成果は私の研究の中で上位に位置していると思っている。これも高木先生の懇切丁寧な指導のおかげで ある。後に、佐々木教授がすい臓がんでお亡くなりになる前に、「押村君は高木君に研究指導を受けてよかったね。」とおっしゃったが、私自身もそう思ってい る。サイエンスの面白さと、考え方を日常の会話から学んだと思う。
ローズウェル癌研究所にて
染色体研究施設での研究生活の3年が経過し、1974年4月に佐々木本道教授の勧めでニューヨーク州立ローズウェルがん研究所(RPMI)のDr. Avery A. Sandberg (サンドバーグ先生)の研究室に留学することとなった。この研究室には代々、北大の先輩方が留学しているところで、私が13人目だという。留学といって も、給料はニューヨーク州から支払われ、当時、年間13,000ドルもらった。日米間の物価の違いもあるが、当時1ドルが360円の時代であったので、日 本円に換算すれば13,000×360円=468万円であり、独身である私にとっては十分すぎる給料であった。
私がアメリカに留学するときには、特定のがんに特異的な染色体異常はCML(慢性骨髄性白血病)のPh1染色体、すなわちt(9;22)のみであり、そ のような特異的染色体異常が他のがんや白血病に存在するかどうかを解明することが私の研究テーマであった。留学する前に、2~3人の先輩はそんなの見つか るとは思わないと言っていた。サンドバーグ先生に具体的な研究内容を聞くと、サイエンスは刻一刻と変化しタイミングよくリニューアルされるものだから、 RPMIには多くの患者がいるので、それを研究することならば何でもよいと言われた。これはあまりに大雑把過ぎるとその当時は思ったが、今になってみれば 自由な研究ができたことに感謝している。それが私の自由奔放な考え方の原点であるかもしれない。何にでも面白がって手を出し過ぎる傾向にはあるが。
まず、RPMIにおいては、急性白血病(AML及びALL)の共通の染色体異常の探索から始まった。因みに、日常我々が培養につかっている RPMI1640という培養液は、RPMIで白血病細胞を培養するために開発されたものである。RPMIにいた3年間でファースト論文8、副論文10の著 者となった。中でも、AMLの8-21転座、ALLの4-8転座を見つけた。さらにハプロイド白血病のグループも見つけた。これらは現在では白血病の診断 に使われている。おそらく300例に近い白血病の染色体解析をしただろうか。私がRPMIで染色体解析をしてみつけた染色体転座のうち、いくつかの染色体 転座は後にがん遺伝子の活性化と深く関わりを持つことが明らかになった。また、白血病や固形癌でよく観察される染色体の消失は、がん抑制遺伝子の消失と深 く関連していることが後の研究からわかってきた。
ところが、染色体の増加に関しては未だにその正確な役割は明らかになっていない。これまでの自身のデータや他研究者の報告により、染色体の異数性は二次的 なエピジェネティクス変化や、さらなる遺伝的変化を誘発することが癌化の引き金になると私は考えており、それを実証したいと願っている。このような願望が 後の(現在の)染色体医工学分野への展開の始まりでもあった。
東京医科歯科大学にて
ローズウェル癌研究所の3年間の後、北海道大学の佐々木教授の推薦で、東京医科歯科大学難治療疾患研究所の助手となり、5年間、主にがんと白血病の染色体 異常について引き続き研究を行った。東京で働くのは初めてであり、全く右も左も分からない私に、当時RPMIの近くにあるバッファロー大学(UB)に留学 されていた東京大学病理学教室の森茂郎先生と奥様(真由美先生)から、東京大学やその出身の多くの方々をご紹介頂き、多くの共同研究がスタートした。因み に奥様とはRPMIで仕事をした仲間だった。東京ではおそらく300例近い白血病の染色体解析をしただろうか。関東の多くの大学、東大、日大、自治医大や 虎の門病院などの白血病患者の染色体解析を一手に引き受けた。その頃、東京医大の大学院に入学してまもなくの大屋敷一馬先生(現・東京医大・第一内科教 授)が、私の第一号の教え子となって頑張ってくれた。彼には強いバイタリティーを感じた。よく酒を飲み語り合った。また、その頃の私は多くの学会発表や論 文発表によって知名度は高まっていったが、一方で不安を感じ始めていた。その主な原因は、有名になるポイントであった。要するに、白血病の症例報告の中に 押村光雄の名が頻繁に出てくれば有名になるが、本来のサイエンスとかけ離れていく感じがしていた。「サイエンス」とは様々な現象を客観的に捉え、その事象 を基に仮説を立て、実証していくプロセスであると思っていた。私は、現象の単なる観察ではなく、本当のサイエンスがやりたいという気持ちの高まりは抑える ことができなかった。また、東京の住みにくさもひとつの要因となり、再び海外で研究活動をしたい、これからは本当のサイエンスをやりたいと思い、再度、渡 米することを決意した。アメリカ育ちのワイフが東京になじめなかったのも一要因であった。
米国立環境科学研究所 (NIEHS/NIH)にて
アメリカへの再度の留学にあたっては、2つの候補があった。ひとつはロサンゼルスのUCLA大学で、もうひとつはノースカロライナのリサーチトロイアング ルパークにある米国立環境保健科学研究所(NIEHS/NIH)であった。色々やりとりをするうちに、後者の方が研究環境と条件がよかったのでそこに決め た。そこでは、白血病の染色体解析の過程で疑問に思っていた染色体異数性と発癌との関わりを解明しようとする実験系が整っていたのである。
グループリーダーは私の2つ年上で、ジョーンズホプキンス大学から移ってきた新進気鋭の生化学及び細胞生物学者であるJ・カール・バレット(J.Carl Barrett)博士であった。カールは、シリアンハムスターの胎児初代培養細胞(SHE)の形質転換モデル細胞系を用いて発癌実験を行っていた。彼が明 らかにしようとしていたことは、ホルモンDESとアスベストスの発癌の原因解明であった。いずれも突然変異を生じないにも関わらず、発癌性を示す理由を明 らかにしようとするものであった。彼はその原因として染色体異数性を推測していた。それを実証するため、細胞遺伝学者が必要であった。私は先に述べたよう に、発癌の実験系が欲しかったので、お互いのニーズが合致したわけである。結果、アスベストスやDESによる発癌の原因は、異数性の誘発であることがわ かった。前者はアスベストスファイバーによる染色体分離への障害で起こり、後者は染色体分離に必要なセントリオール形成の阻害で起こることが明らかになっ た。ちょうどその頃、NIH/3T3細胞への膀胱がん細胞からのDNAトランスフェクション実験から、プロトオンコジーンの活性化が発癌の原因であること も明らかになっていた。先に述べた染色体転座も、このプロトオンコジーンの活性化に関与することが明らかになってきた。
このような発癌とオンコジーンとの関わりが注目される中、私は一つの仮説を立てた。発癌にとって、オンコジーンの活性化が十分条件であるとするならば、正 常細胞にオンコジーンを導入してがん化しても、細胞は正常核型のままであると考えた。ところが、オンコジーンの導入後のがん化の過程において、特定の正常 染色体の消失が生じていることを見いだした。すなわち、シリアンハムスター胎児由来培養線維芽細胞(SHE)の発癌にはプロトオンコジーンの活性化ととも に、正常染色体(15番)の消失が必要であった。要するに、癌の発生には発がん遺伝子は必要であるが、さらに、特定の正常染色体あるいは遺伝子の消失が必 要であることを示すものであった。これが、がん抑制遺伝子の存在を明らかにした最初の実験的証明となり、この研究成果は世界のトップジャーナルである Natureに掲載された。
もちろん、その研究は突然思いついたものではなく、それまでの正常細胞とがん細胞との融合実験から推定されていた。すなわち、正常細胞とがん細胞との融合 細胞はがん形質を失う。また、それを継代培養していくと特定の染色体が消失し、再びがん形質が獲得されるという多くの報告がされていた。そこで考えたのが 次の仮定である。もし、発癌に染色体の消失が必要となるならば、逆に、がん細胞に特定の正常遺伝子を導入すればがん形質は消失するのではないか。しかし、 課題はそれをどのように実証するかであった。 当時、あまり多くの研究には応用はされていなかったが、フォーニエとラドル(Fournien and Ruddle,1977)が染色体導入法を発表していた。私はこの方法によって、がん細胞に対し、がん抑制遺伝子の乗っている染色体、あるいは染色体部位 を導入すれば、染色体消失の意義が明らかにされる、あるいはがん抑制遺伝子の存在する染色体の同定ができると考えた。しかし、正常染色体導入によるがん抑 制に関わる最初の研究成果は私達ではなく、アメリカのスタンブリッジのグループ(Saxon et al,1986)の子宮頸癌を用いた研究となった。要するに、先を越されたのだった。だいたいにおいて、同じような研究をやっている人はどこかにいて、ス ピードが勝負の世界ではあり、スピードも能力のうちである。ちょうどその頃、当時、横浜市立大学教授である梅田誠先生が私の勤務している NIEHS/NIHを訪問され、お会いした。私はそれまで先生とは一面識もなかったが、先生は日本組織培養学会や変異原学会、病理学会では重鎮の先生で あったので私は存じ上げていた。私の研究を紹介すると、横浜にある神奈川県立成人病センターをがんセンターに改組し、その中に臨床研究所を設置するとの計 画を紹介され、その後その研究所の細胞遺伝学研究室の室長として迎えたいとの打診があった。私はNIEHSに不満があったわけではなく、むしろ順調に進ん でいたし、ボスであるカール・バレットはパーマネントのポジションも用意するし、このまま居てくれるように言ってくれたが、その時私は独立したいとの気持 ちが強く、引き返せなくなってしまっていた。
神奈川がんセンターにて
その後日本に帰ることになり、そのときNIEHSのポスドクであった児井稔さん(現アメリカ)を研究パートナーとして連れて帰ることとなった。彼は半年先 に帰国し、私はその間、アメリカでの仕事を片付けると共に日本に帰ってからの研究プランを考えることとなった。すでに述べたが、染色体導入によってがん抑 制遺伝子の存在を証明し、遺伝子をクローニングしたいと思い、それを帰国後のテーマと決めていた。すでに帰国している児井さんにそのことを伝え、研究がス タートした。染色体導入するためのヒト単一染色体ライブラリーを作製する必要があり、児井さんに私が集めた情報を渡しスタートすることとなった。半年後に 私は神奈川がんセンターに赴任して、ヒト単一染色体ライブラリー作製プロジェクトがスタートした。その時に、現在、鳥取大学の私の教室の准教授・久郷裕之 君がスタッフとしてジョイントすることとなった。やるからには全ての染色体について導入可能になるライブラリーを作ろうということになり、相当試行錯誤し て、完成には2・3年かかった。役割としては、児井さん、久郷君が細胞クローンの取得で、私はその染色体解析が担当であった。その間、1番染色体や11番 染色体導入のためのA9細胞が取得でき、まずはSiHaという子宮頸癌細胞株に11番染色体を導入して、がん抑制ができる事を示し、1989年に児井さん がファーストで発表した。また、これらの成果を癌学会総会で発表した。できるだけインパクトのある発表をしたいと思い、前述のヒト単一染色体ライブラリー の作製を含め、常染色体導入によるがん形質の抑制まで5つのポスターを連番で発表した。予想通り、NHKもポスター発表に集まった人だかりを映像とともに 報道した。その1~2年後に、染色体導入によるあるがん形質の抑制を発表したときのことであるが、当時、理研の重鎮である井川洋二先生が質問してきた。い や、質問というよりはきびしい批判であった。
その時の先生のコメントは「今やオンコジーンなどの単一の遺伝子を細胞に導入して、その遺伝子の機能を知ろうとしている時代に、多くの遺伝子が残ってい る、しかもどのような遺伝子が載っているのかわからない染色体自体をがん細胞に入れて、がんを抑制する遺伝子など分かるわけがない。そんな荒っぽい仕事は ナンセンスだ。」と言うものであった。井川先生はウィルス学の大家であり、単一遺伝子の現象論で理解しようとする考えであったのであろう。私はその時、 とっさに「がん形質をみるかぎりにおいては、その染色体上の発癌に関連する遺伝子が存在するかどうか分かるはずだ。むしろ、染色体は生理的発現をするもの で、オンコジーンのような遺伝子にウィルスプロモーターをつけて強発現させ、その機能を知ろうとする実験の方がはるかに荒っぽい。」と私は反論した。その 後10年もたったころ、井川先生にこの話をしたら、二人は笑った。どちらも正しかったからだ。
ちょうどそのころ、その後の私の研究生活に欠かせない2人との出会いがあった。1人は当時、大阪大学細胞工学センター教授であった松原謙一先生である。先 生は、私たちがつくろうとしている単一染色体ライブラリーはヒトゲノム研究の資材として非常に重要であるから、研究費を出すからライブラリーを完成するよ うにと言われた。これは、経済的にも精神的にも大きな支えとなった。もう1人の重要な出会いは、癌研の中村祐輔先生であった。(現東大医科学研究所・シカ ゴ大学教授)。彼はまさにユタ大学から帰ってきたばかりの、新進気鋭の研究者(因みに、松原謙一先生の教え子)であった。
当時、癌研究にとってヒト遺伝子マッピングは重要なテーマであり、そのためにもヒトDNAを含むBAC(バクテリア人工染色体)ライブラリーの作製が必須 であった。ライブラリーの作製のために、我々の作製した単一ヒト染色体をもつマウスA9細胞が重要な資材であるとのことで、我々のライブラリーを使うこと となった。私としては、そのような使い方があるとは想像もしていなかったので、色々な方法があるものだと驚きであった。実際に中村先生はヒト染色体ライブ ラリーから出発して、我が国、いや国際的なゲノム解析、特に癌研究、診断や治療に大きく舵を取られ、国際的に大きな役割をされることとなった。そういう意 味では、目的は異なってはいたが、結果的に我々の研究成果が多少なりとも医療や医学研究に貢献したことになるだろう。
私たちの本来の研究である、ヒト単一染色体ライブラリーを用いたがん抑制遺伝子の同定プロジェクトであるが、こちらも順調に進んでいった。培養癌細胞の研 究を通して、癌抑制効果には3つのパターンがあることが分かってきた。ひとつは不死化であるがん細胞の細胞老化、ふたつめはヌードマウスにおける造腫瘍性 の抑制、もうひとつは造腫瘍性の抑制はないが、転移能の抑制である。細胞老化に関しては前出のNIEHS/NIHのバレット博士(元私のボス)との共同研 究によって、ヒト1番染色体にあることを突き止め、サイエンスに掲載され、国際的に脚光を浴びた。その成果は日本の一般向けのサイエンス雑誌 「Newton」にも紹介された。
鳥取大学にて
その後、私が鳥取大学に赴任したのは、平成2年4月(1990年)で41歳であった。その前年、九州大学生体防御研究センター初代センター長であった遠藤 英也先生から、当時私が勤務していた神奈川県立がんセンター臨床研究所に電話があり「至急会いたい」との連絡があった。遠藤先生は日本癌学会の年会長を務 めるなど重鎮であった。数日後、遠藤先生が来られ、鳥取大学医学部に全国で初めて医学部で医学知識を持つ研究者を育成する学科を設置するのだが、細胞工学 講座を担当して貰いたいとの依頼だった。条件として、助教授1名、助手1名、技官1名を自分で採用してもよく、白紙に絵を書いてもらいたいとのことだっ た。しかし、まだ研究室はなく、生命科学科棟を建てるべく文科省に要求中であるとのことだった(結果として、1期生が卒業する3か月前に入居することと なった)。それまでは、遠藤先生の所属する分子生物講座の2室(現・医学部アレスコ棟6階)をお借りすることとなった。教室員が徐々に増えるにしたがって あちこちの室を転々と仮住まいした。
鳥取大学に赴任してからも当初は主に染色体導入によるがん抑制遺伝子と細胞老化遺伝子の同定に関する研究をした。その頃、国立がんセンター総長の杉村隆先 生や分子腫瘍学部門長である寺田雅昭先生の御支援により、がん特別研究班員として資金的にはそこそこやっていけた。今でも思い出すが、お二人は私に「海外 から帰ってきて、海外でやってきたことを引きつづきやっている研究者が多くいるが、君は少々遅れたとしても日本で立ち上げたオリジナルな研究をしなさい」 と言われた。その言葉は後の私の研究生活のモットーとなった。
さて、鳥取大学に来て数年もした頃、突然キリンビール株式会社基盤研究所長、石田功研究リーダー(現 平成薬科大学教授)及び富塚一磨研究員(現 協和発酵・キリン免疫学研究所/米国ラホヤ)が訪ねてきた。それまで、キリンビールで開発しようとしてきた完全ヒト抗体産生マウス作製に関する支援依頼で あった。キリンビールはそれまでに数年の歳月を費やし、マイクロインジェクション等による遺伝子導入など様々な方法で抗体遺伝子導入を試みてはいたが、い ずれも完全抗体遺伝子導入は失敗に終わっていたようである。彼らは我々の染色体導入の手法を用いて1Mbにも及ぶヒト抗体遺伝子を含む染色体を、マウス抗 体遺伝子をノックアウトしたマウスES細胞の中に導入して、キメラマウスを作製しようと考えていた。この話があったときには、本当にできるかどうか、相当 高いハードルであるように感じた。それは、染色体導入がマウスES細胞に可能かどうか、また染色体導入キメラが生まれるかどうも明らかではなかったからで ある。要するに、世界のだれもやっていなかったことであり、不安の反面、そこにワクワク感はあった。この研究をやることになり、当初はいかに導入する染色 体を抗体遺伝子領域のみにするかが最大の課題であった。
我々の染色体導入技術提供の後は、富塚さんを中心にキリンビールの研究所で行われ、その結果の検討は鳥取大学でやったり、キリンビール研究所で頻繁に行っ た。まず手掛けたことは、ヒト2番染色体の入っているマウスA9細胞にテロメア配列をトランスフェクションして、ランダムにインテグレートすればその染色 体末端は切断されるという報告にしたがってテロメアシーディングを試みた。この手法はあまりにクローンが取れなく失敗に終わったので、次の戦略として、2 番染色体の入っているマウスA9細胞クローンをとり、抗体遺伝子を含むが他の遺伝子ができるだけ入っていない自然欠失のクローンを単離することにした。 ラッキーにも2番染色体短腕上のk鎖はセントロメア近傍にあり、そのほとんどの長腕も、短腕のテロメア側も欠失したほとんどk鎖のみの2番染色体を保持し たA9細胞が得られた。この2番染色体由来のフラグメントをW23と名付けた。これはまさに幸運であった。その染色体をマウスES細胞に導入し、キメラマ ウスを作製し、幸いなことにこの染色体は子孫伝達をした。このような染色体を導入したマウス個体をTrans-chromosomic (TC) マウスと名付けた。この名称は1998年版現代用語の基礎知識(自由国民社)に掲載された。
しかし、最終的にヒト完全抗体を作製するためには、更に14番染色体上のH重鎖をもった染色体部位も必要であった。そこで再びヒト14番染色体を持ったマ ウスA9細胞をクローニングすることにした。驚くことに14番染色体上の重鎖遺伝子を持つが、他の14番上の遺伝子はほとんどない染色体フラグメントが取 れた。これをSC20と呼んだ。W23とSC20を両方持つキメラマウスもでき、子孫伝達もした。こんなラッキーなことは奇跡の他に考えられない。なぜな ら、重鎖遺伝子は14番染色体の長腕末端にあるので、その他ほとんどの遺伝子がないということはinterstitial deletionが生じていることを意味する。これがキリンと我々の運命を変えたといっても過言ではない。 今から考えるとそのラッキーは、①タイミングのよい出会い、②我々の染色体工学の新しい息吹を開こうとしたエネルギー、③キリンビール株式会社の新規ビジ ネスに対する熱意、④石田さん、富塚さんのアイディアと富塚さんの努力、⑤私の生殖細胞系に関するそれまでに積み重ねた知識、⑥最後になるが神のみが知る 神の意志から生まれたものであると信じている。
結局このH重鎖、k軽鎖を持つマウスが誕生し、それらに対応したマウス遺伝子をノックアウトしたマウスとの交配によって完全なヒト抗体を産生するマウスが 誕生した。この成果はNature GeneticsのArticle、PNASに掲載され、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストで報道され、大ニュースとなった。因みに、日本ではあま り騒がれなかったが、一番大きなことは、鳥取大学という地方の大学の基盤技術が世界を驚かす技術へと発展したことである。これは前述の、自分達でコツコツ と開発してきたオリジナリティーがゆえであると思う。
その後DT40細胞という外来DNAと極めて相同組換えが高頻度に生じるニワトリのpre-B細胞株がスイスのバーゼル免疫学研究所の武田俊一先生(現 京都大学教授)らから発表された。このDT40細胞にヒト染色体を入れて、外来遺伝子との組換えが生じることが、Fonierらによって発表されていたの で、我々はこの方法を使って2番染色体を14番染色体に転座させようとした。それぞれにLoxPサイトを相同組換えで挿入して、2つの染色体の転座を生じ させ、それをES細胞に導入、キメラマウスを作製した。このマウスは後に米国の抗体作製会社メダリック社と合同で、キリンビールはKM(キリン・メダリッ ク)マウスとして抗体医薬にデビューすることとなった。 その後、キリンビールに鳥取大学の持ち分の特許権利は譲渡された。蛇足になるが、本来なら私が個人でもらってもよいお金であるが、鳥取大学に1億 5,000万円の寄付講座(5年間)、ゲノム医工学が設立されることとなった。この講座は現在も医学部生命科学科の講座(学内措置)として存続し、生命科 学科の一翼を担っている。この私の行動は、私が「行動の美学」と呼んでいる精神に基づいている。
このW23/SC20抗体遺伝子を持つ染色体は後にクローンウシが作られ、ワクチン産生のためのウシが現在アメリカで開発されつつあると聞く。後に、ク ローンヒツジのドリーを生み出したイアン・ウィルムット博士は、クローン技術が役に立った実例としてこのヒト化抗体ウシ誕生を紹介した。講演内容を紹介し た新聞記事を見て、鳥取大学発の技術が世界のクローン技術と融合したことを誇りに感じた。
ちょうどそのころ(平成8年10月15日)科学技術振興事業団(JST)の戦略的基礎研究推進事業(CREST)から研究領域「生命現象(生命活動のプロ グラム)」の研究代表者に指名され、5年間で約総額7億円の事業がスタートした。実際、この当時、CREST研究費申請が書類審査を通り、東京へヒアリン グに行った時はその前後には何も喉に通らなかった。後に競争率は20倍であったと聞かされた。私はこの時、コネクションなどなくても、地方であっても研究 のユニークさで勝負できると確信した。テーマは「ゲノムインプリンティングの制御機構の解析」であった。このプロジェクトは我々が長年かけて作製してきた 単一染色体ライブラリーを用いるものであり、父方由来と母方由来の相同染色体上の遺伝子の発現パターンを比較することによって、インプリント遺伝子を同定 したり、その制御機構を解明しようとするものであった。このプロジェクトの中で、LIT1という全長50Kにもわたるnon-cordingRNAを発見 した。このLIT1はヒト11番染色体上のインプリンティングクラスター領域にあり、その領域のインプリンティングセンターとしての役割を持つことが分 かった。現在では、このLIT1は先天異常であるBWS(ベックウィズ・ウィーダーマン)症候群の原因遺伝子として知られるようになった。このLIT1の 研究は、引き続き久郷准教授がその役割に関する研究として継続されている。この発見はnon-cordingRNAの先駆けとも言える成果であった。その 他、多くの新しい知見を見出したが、医学部生命科学科一期生の三ツ矢幸造(現 テキサス大学)君と三期生の目黒牧子(現 金沢大学)さんの努力が主な原動力となった。
その後、これまでに蓄積した染色体工学の技術は大きな広がりを持って発展した。ヒト人工染色体(Human artificial chromosome : HAC)の作製がその1つである。ヒト21番染色体をトリpre-B細胞株DT40に入れ、すべての染色体領域を取り除き、その染色体上にLoxPサイト を挿入し、遺伝子導入ベクターに仕上げた。また、マウス人工染色体(MAC)も作製することに成功した。これらの研究は現助教の加藤基伸・香月康宏と大学 院生・滝口正人君が主に行ってくれた。
その後、我々の人工染色体(HAC)が思いもよらない出会いを与えてくれた。それは、山中伸弥教授との出会いを発端として、平成20年4月23日に、再び JST/CRESTによる研究領域「人工多能性幹細胞(iPS細胞)作製・制御等の医療基盤技術」の研究代表者に指名された。特に、デュシャンヌ型重症性 筋ジストロフィー由来のiPSを用いた遺伝子治療を目指して、 HACを用いて2.4Mbのジストロフィン遺伝子を患者由来のiPS細胞へ運ぶことができ た。世界で初めて、2.4Mbのジストロフィン遺伝子の完全修復である。香月康宏助教・平塚正治助教とそのグループの努力によるところが大である。
この成果が報告されると、国外の研究者から共同研究の申し込みがあった。特にイタリア・ミラノのGiulio Cossu教授(現London College of Medicin)との共同研究は我々にとって実り多いものとなり、現在でも引き続き共同研究が行われており、卒業生の星谷英寿君がポスドクとして活躍して いる。彼らはそれまでに中胚葉性血管芽細胞を用いてイタリアで前臨床実験に入っているグループであった。我々との共同研究により、筋ジスモデルマウス由来 の中胚葉性血管芽細胞をDYS-HACで補正し、モデル動物に動脈から注入することによって、モデルマウスの症状改善に成功した。また、これらの人工染色 体に山中因子を乗せ、iPS細胞の作製のためにも利用できることを示した。これらは、平塚正治君、香月康宏君(鳥大 助教)や、大学院生である宇野愛海君、上田佳奈さんらのがんばりが実った成果であるが、今後の課題として、将来の幹細胞を用いた安全安全な遺伝子再生医療 のためにHACがおおいに役立つことを実証してもらいたいと思っている。
さらに、これらHACやMACはヒト型代謝酵素Cyp3Aを持つモデルマウスの作製につながった。これらの成功がきっかけで、鳥取県が建物を、JSTが機 器を、鳥取大学が土地を提供して作り上げたバイオフロンティア事業がスタートすることとなった。そのバイオフロンティア事業の中(建物自体もそのように呼 ぶ)で、文科省の地域イノベーションクラスター事業や経産省の化学物質毒性モニタリング細胞システム開発が行われている。最後になるが、染色体医工学研究 成果を社会に還元すべくクロモセンター(大学側発起人:押村光雄)及びGPC研究所(発起人:大林徹也)という大学発ベンチャー企業も設立され、大学の社 会貢献の一翼を担っている。
山中伸弥教授(2012年ノーベル医学・生理学賞受賞)との出会い
平成18年5月、東京の学術総合センターで開催された幹細胞シンポジウムで、山中伸弥京大教授のiPS(誘導多能性幹細胞)作製に関する衝撃的な発表を拝 聴しました。その時の感動は今でも忘れません。一度皮膚などに分化した細胞は元には戻らないというこれまでの常識を覆したものでした。私は、それ以前に、 山中先生が勤務されていた奈良先端科学技術大学院大学におられたお若い頃の山中先生を存じ上げていましたので、5年ほど前に、鳥大医学部においてセミナー と共同研究のための打ち合わせにおいで頂きました。その後、我々の開発したヒト人工染色体を利用した筋ジストロフィーの遺伝子治療と安全なiPS作製に向 けた共同研究に着手し、学生や研究者の交流を始めました。その成果が,米国有力新聞紙上に「山中先生らの世界に誇るiPS技術と鳥取大学発の人工染色体工 学技術とが結婚した」と報道されました。
そのようなこともあり,山中教授のノーベル賞受賞を知り、自分のことのように嬉しく思います。山中先生は、人格も大変ご立派なかたであり、常に難病の治療 に向けて全力で研究に没頭しておられます。研究者としてはお若いながら、おごることなく、謙虚であり、我々研究者としてあるべき姿を示されているように思 います。山中教授のノーベル賞ご受賞は我が国のサイエンス離れと言われる若者に、研究者が,すばらしい社会貢献のできること、多くの難病で苦しんでいる 方々を救うには、基礎研究がいかに重要であるかを伝えました。山中先生の研究成果は、実際に臨床に応用されるまでには少なくとも5年はかかるでしょうが、 様々な障害のある細胞を正常な細胞に置き換えることができると考えられるiPS細胞は、まさに、今後の医療を大きく変える夢の技術であることは間違いあり ません。特に,心筋梗塞やアルツハイマーなど我々の身近な病気の治療に役立つばかりでなく,難病の原因解明や創薬に役立つ、まさに万能細胞の到来です。昨 今の声の大きさと手前勝手な主張だけがまかりとおる国際情勢の中,この受賞は大きな声で我が国の科学技術の高さを誇ってよい快挙です。私達の人工染色体の すばらしい出会いと融合が、いつの日か新たな再生医療に結びつくことを願ってやみません。
終わりに
以上のように染色体研究から始まり、染色体医工学への発展した歴史、まさに押村光雄の歴史でもある。もちろん私が一人で成しえた成果ではなく、多くのス タッフ、学生、そして仲間のアットホームな研究環境があってこそここまで来たと思い、ネズミをはじめ全ての私と接点のあった人々に感謝している。もちろ ん、全ての学生達とその成果は私にとって全てが忘れることのできないおもいでなのでここで紹介したいところであるが、それらは別の切り口で紹介することと したい。因みに、研究の後半は、私は単に旗振り役である。今後、更に発展し、我々が創り出した染色体医工学が世界のスタンダード技術となり、それを通じ て、大学の個性化、経済活性化、健康維持、人材育成と社会貢献できれば、私の研究生活はそれなりの価値があったといえよう。最後になったが、人の繋がりは 連綿としたものであると同時にサイエンスもそうである。しかし、単純に流されるのではなく、新しい自分なりの流派をこれからの人にはつくりあげてもらいた い。それが私の願いでもある。「単に私のまねごとに終わらないように」お願いして筆を置きます。出会いとタイミングを大切に!
追記1. 特に思い出に残る研究成果
本文においては1つ1つの研究には様々な人生ドラマがあり、それ自体興味深く、記録に残しておきたいのだが、私の研究生活の流れを知ってもらうため,キー となる研究の概要を紹介するにとどめた。したがって、附記として、私の400編余の論文(Pubmed,Oshimura; Oshimura; https://www.med.tottori-u.ac.jp/chromosome )の中で、いわゆるIMPACT FACTORによらない特に思い出に残る個々の研究成果について箇条書きにしました。また、私が鳥取大学に赴任する少し前からの新聞等の報道をまとめた 「報道から読み取る鳥取大学における染色体医工学の歩み(2012年7月)」もホームページと冊子にまとめているので、参考資料としてご覧いただきたい。
- Oshimura et al,JNUI,1973
犬の陰部腫瘍は細胞伝播(移植性)による。また、この論文は世界で初の犬の分染法による染色体解析となった。世界のこのタイプの犬の陰部腫瘍は一匹の犬から伝播した。 - Sakurai et al,Lancet,1974
白血病細胞の8-21転座の世界で2番目の論文で、現在ではAML(急性骨髄性白血病)のM2診断マーカーとなっている。 - Oshimura et al,Cancer, 1976
Ph¹-positiveALL(急性リンパ性白血病)の第1例目。 - Oshimura et al,Cancer 1997
リンパ性白血病の4-8転座の第1例目。現在では、診断や、白血病発症メカニズム研究の対象として使われている。 - Oshimura et al,Cancer 1977
Haploid leukemiaとして診断に利用されている。小児の非常に予後の悪い急性リンパ性白血病(ALL)である。 - Oshimura et al,Nature,1985
rasやmycのオンコジーンは癌化に必要ではあるが、がん抑制遺伝子の消失がさらに必要である。これは世界で最初のがん抑制遺伝子の存在の実験的証明である。 - Oshimura et al, Cancer Genet. Cytogenet.1989
アスベスト、DES(ホルモン剤)の発癌性は突然変異によらず染色体異数性による。 - Sugawara et al,science 1990
ヒト1番染色体上に細胞老化遺伝子が存在することを示した。この成果は一般科学誌「Newton」にも紹介された。 - Ohmura et al,Jpn J Cancer Res 1995
世界で初めてテロメレース抑制遺伝子がヒト3番染色体上に存在すること示した - Tomizuka et al, Nature Genet. 1997
世界初のヒト完全抗体産生の染色体導入マウス(TCマウス)作製に成功した。 - Mitsuya et al,HMG 1999
父方及び母方由来が明らかな単一染色体ライブラリーを用いてベックウィズ・ウィーダーマン症候群(BWS)の原因遺伝子を特定した。これは11番染色体上のインプリントセンターであった。 - Meguro et al,Nature Genet 2001
15番染色体上に新規母性発現刷り込み遺伝子を同定し,アンジェルマン症候群発症に関与していることを明らかにした。 - Shinohara et al, Hum.Mol,Genet 2001 ダウン症モデルマウス作製に成功。
- Kugoh et al,Mol,Cancinogenesis 2002
染色体導入法を用いてがん抑制制御機構には細胞老化、造腫瘍性の抑制、転移抑制があることを明らかにした。 - Kazuki et al, Mol Therapy 2010
HACを用いてデュシャンヌ型筋ジストロフィー患者由来のiPSの完全修復に成功した。 - Kazuki et al, gene Therapy 2011
ヒト21番染色体の全ての遺伝子を取り除いたヒト人工染色体(HAC)を作製した。 - Hiratsuka et al, Pros One 2011
ヒト人工染色体(HAC)によってマウスiPS作製に成功した。 - Tedesco et al, Science TM. 2011
ヒト人工染色体を用いた筋ジストロフィーモデルマウスの治療に成功した。 - その他、染色体導入技術による我々の研究成果が1)scid mouseの原因遺伝子(DNA-PK)の同定、2)ニーマンピック病の原因遺伝子の同定、ナイメーヘン原因遺伝子の同定、がん抑制遺伝子(KAI-1, TSLC-1) などの同定や、テロメレース抑制遺伝子(PITX1)の同定などのきっかけを作った。また、最近では、ヒト型薬物代謝酵素を持つモデルマウスやダウン症モ デルマウスの作製等にも大きく貢献している。
追記2. 私の座右の銘の1つを紹介します。
天のもとでは、何事も定まった時期があり、
すべての営みには時期がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えたものを引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある。
探すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
(聖書 伝道の書 第3章)